心=”光”のサイエンス(潜在能力点火法)
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 2023年9月分 Twitter

 
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○2023年9月分

 9/1
 (後藤新平に関して書きたいことはたくさんあるのでいくつかのテーマにわけて書きます)

 関東大震災で壊滅した東京

 1923年の今日、9月1日正午2分前に東京を中心に関東大震災が発生した。東京は壊滅的な被害をうけた。
 死者10万人を超える大災害。とりわけ被害を大きくした要因は、地震のあとに発生した大規模な火災だった。(戦前では世界最大の都市大火)

 9/2
 死者の9割超が火災による犠牲だったことからもわかるように、尋常ではない火災が発生した。
 (一か所で数万人が焼死するほどの火災。現在の東京都復興記念館があるあたりが最も被害の大きい地域)

 地震と火災により東京一面は焼け野原となり、多くの人命と建物の大半が失われた。まさに、帝都東京は絶望的な状況になった。

 このとき、壊滅した東京を復興させる責任者に選ばれた人物こそ、当時の日本の内務大臣(副総理格、総理大臣に次ぐポジション)の地位にあった後藤新平だった。当時67歳。

 9/4
 後藤は非常な先見性、圧倒的な行動力、強い責任感、国民への愛情をもった人物だった。

 もし後藤でなかったならば、東京の復興はうまくいかず、今のような東京は存在していなかっただろう。

 日本人のほとんどの人は知らないだろうが、東京にとって後藤は非常に大きな意味を持つ人物。

 9/5
 様々な横やりが入る中、後藤はそれでも、帝都復興のために部下と協力しながら命を削って働いた。

 いったい後藤は何を成し遂げたのか。震災直後の後藤の働きをみていきます。

 9/6
 後藤新平の帝都復興計画

 震災発生直後、後藤は帝都復興院(※)総裁に任命される。

 帝都復興院とは、関東大震災から東京を復興させるために後藤の発案で設けられた一時的な組織。(一時的とはいえ省と同格の権限を有していた)

 9/7
 この立場を最大限に生かし、後藤は東京の復興を実現していった。後藤が計画した復興ビジョンとは。

 当時、後藤が作成し閣議提出した「帝都復興の議」には次のように書かれている。

 9/8
 東京は帝国の首都にして、国家政治の中心、国民文化の淵源(えんげん)たり。

 したがって、この復興はいたずらに一都市の形態回復の形にあらずして、実に帝国の発展、国民生活改善の根基を形成するにあり。

  9/9
 されば、今次の震災は帝都を化して焦土となし、その惨害言うにしのびざるものありといえども、理想的帝都建設のための絶好の機会なり。(中略)

 この機会を逸せんか(のがせば)、国家永遠の悔を遺すにいたるべし。よってここに臨時帝都復興調査会を設け、帝都復興の最高政策を審議決定せんとす。

 『後藤新平―大震災と帝都復興,越澤明著,ちくま新書,P.204-205』より引用。()内筆者追記。

 9/11
 後藤が東京復興にかける想いが伝わってくる。後藤は帝都復興院の幹部職員を後藤と縁のある優秀な人材でかためた。

 後藤には、これはと見込んだ人物を引き抜き、自らの部下にするという特徴があった。人を使うのが抜群にうまかった。

 9/12
 後藤が台湾総督府の民生長官や満州鉄道総裁として活躍した時などに部下だった人物(皆、抜群に優秀)を日本中から呼び寄せ、それぞれの力を活かして東京復興に全力を尽くした。

 9/13
 後藤とその部下たちは、寝る間も惜しんで詳細な復興計画、復興予算案を作成した。

 しかし、後藤たちが総力をあげて短期間で完成させた復興予算案は、大幅に削減されてしまう。

 9/14
 帝都復興審議会に提出された時点の復興予算案は7億2千万円。

 しかし、最終的にその額は約4億7千万円に削減されてしまう。

 (後藤たちが見積もった時点では、最低ギリギリのラインでも10億円が必要という試算結果を出している)

 9/15
 政治的な思惑などの事情により予算は削減された。

 (復興が計画通りに進んで、後藤が次期総理になってしまうことを阻止する等の目的があったとされる)

 後藤は断腸の思いでこの大幅削減案を受け入れた。

 復興が遅れることにより、震災による苦難を抱えている東京市民にさらなる困難をもたらすことは、何としても避けたかった。

 9/16
 結局、予算の削減により後藤たちが計画した復興計画から、大きな公園や広場、幅の広い道路などが削られていった。

 もし、後藤の計画通りに東京の街づくりがなされていたならば、今の東京はもっと公園が多くて、緑や水の豊かな街になっているはずだった。

 9/18
 のちに、昭和天皇は後藤新平の計画が予定通りなされなかったことに対して、次のように語っている。

 「震災のいろいろな体験はありますが、一言だけを言っておきたいことは、復興にあたって後藤新平が非常に膨大な復興計画をたてたが…

 もし、それが実行されていたらば、おそらくこの戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災(東京大空襲)は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思っています。」

『後藤新平―大震災と帝都復興,越澤明著,ちくま新書,P.235』より引用。

 9/19
 ただ、縮小されたとはいえ、そもそもの計画が巨大だったこともあり、後藤の計画の内の何割かはきちんと実現された。

 規模でみれば、震災による消失区域の約9割にもおよぶ区域で区画整理が行われた。

これは世界の都市計画史上、前例のない規模の大掛かりな街の改造であった。

 9/20
 もちろんその跡は今でも残っている。東京を歩けば目にすることが出来る。
(というより、歩いている道路自体が後藤の計画の一部)

 たとえば、この巨大な道など。行幸道路。東京駅から皇居へと続く大きな道。道幅73m。
光の風船玉

 9/21
 その他にも、昭和通り、大正通り(靖国通り)、八重洲通り等の大きな道路がある。今日の東京でみられる主な道路はこのときにつくられた。

 震災前の東京は、江戸時代の街のつくりが残っていて舗装もされていないような悪路がたくさんあったことと比較すると、まさにこの時を境に近代的な街に生まれ変わったと言える。

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 震災前の東京は、江戸時代の街のつくりが残っていて舗装もされていないような悪路がたくさんあったことと比較すると、まさにこの時を境に近代的な街に生まれ変わったと言える。

 9/23
 しかし、こんなにも大事なことなのに日本人はほとんどこのことを知らない。
 なぜか。

 最後に東北の歴史と関連させてまとめます。

 現代人は東京復興の立役者、後藤新平を知らない

 9/27
 ここまでみてきたように、東京復興に際し後藤新平が果たした役割はとてつもなく大きい。

しかし、このことをほとんどの日本人は全く知らない。

 これは後藤が東北人、岩手の出身であることと無関係ではない。少なくとも私はそう考える。

 9/28
 後藤が生まれたのは江戸末期の1857年。

 1868年に日本中を巻き込んだ戊辰戦争が起こり、日本国内は「官軍」と「賊軍」に分けられた。

 後藤の生まれた岩手県水沢の地域は、その当時は仙台藩の領地。つまり新政府軍に負けた側の「賊軍」だった。

 9/29
 「賊軍」とされた東北人が活躍したことは、あまり表に出してはいけない歴史。

 特に明治期は薩摩・長州藩出身者の力が強大で、東北出身であるというだけで、非常につらい立場にあった。

 (後藤や原敬が東北出身者として活躍した人物の筆頭だが、このように活躍できたのは例外)

 9/30
 東北地方の多くは奥羽越列藩同盟に属した賊軍の地であり、新政府軍から「白河以北一山百文」(白河関から北の土地は一山で百文の価値しかないという侮蔑表現)と蔑まれた。


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